統一教会のパラドックスを解き明かす

(注)ここでの見解はあくまでも個人的な経験をもとにしたものです。

  

2世としては統一教会の全てが間違っているとは思いたくないのが正直な気持ちです。それはこの教会の光と闇の部分両方を見ているからです。

神様を親と考える部分は他の宗教と同じだし、中には本当に社会に貢献している立派な人格者も沢山います。NGO活動を通して発展途上国の若者に新しい可能性を与えるという意味では慈善事業ととれなくもないです。

また、信仰というのはどこまでも個人の自由ですから、好きで信じてる人にとやかく言うつもりはありません。 2世についても同じです。この教会が自分に合ってるならそれに越したことはないでしょう。

ただこの世に完璧なものなどないのは確かです。宗教も同じ、妄信ほど危険なものはないというのは声を大にして主張したいです。

 

もし2世が教会に対してどうしても納得いかない疑問があるなら、その理由を一度しっかり突き詰めて分析してみることは自分の状況を客観的に判断するためにも重要な過程と言えるでしょう。

 

私がずっと感じてきた教会に対する最大の違和感の一つはその行き過ぎた韓国至上主義です。

とても簡単に言えば韓国語や韓国の文化伝統こそが正当な天の文化であり、それを全世界の人々が受け入れ、はたまた食口になり祝福を受けなければ天国に行けないと教えています。

 留学経験を含めてさまざまな文化に触れてゆく中で、上記の教えはあまりに独善的で矛盾が多いと感じるようになりました。

教会の定義には確かに“超宗教・超国家的な神様を中心とした一つの家族”というフレーズが含まれているのですが、肌で感じる実態はかなり違います。

  

その理由は表面的にはキリスト教を基盤にした信仰理念を提唱しているように見えますが、その本質は韓国儒教にずっと近いからです。

1.先祖崇拝:韓国文化は自分の血統と先祖を大変重要視しますが、統一教会はそれに輪をかけて、「先祖解怨と先祖祝福」なるものを義務化しています。

今日存在するすべての悪や不幸は人間の始祖が堕落し、その堕落性が代々受け継がれてきたせいであり、先祖たちは全員地獄で苦しんでるから、その子孫である私たちが解放して祝福結婚させてあげなければならないという理論です。←膨大なお金がかかります。

 2.親の絶対性:先祖崇拝に起因する孝行の精神、儒教は「孝」を徳のひとつとし、家庭において子が親に尽くすことを説きました。

教会では真の親、つまり教祖に絶対服従することが孝だと教えています。

天の摂理と真の父母のために殉職するのは本望だ的なことも言っています←本当に神様はそれを望んでいるのでしょうか? 何を根拠に?

3.情の世界:日本でも空気を読むとか、本音と建前がありますが、韓国にも独自の情緒があります。韓国では特にこの情が人間関係や物事に対する判断を大きく左右する傾向があり、善悪の基準すら気持ち次第でコロッと変わってしまうことが多々あります。

*ここでの”情”はフレンドリーさとは全く別物です。これはどこまでも血縁に対する情であり、博愛によるものではありません。

4.血縁主義:上記の延長になりますが、韓国人は自分の血縁である人には特別な感情を抱くようです。初対面でも血縁と分かれば態度が一転してまるで昔からの友人のように接してきます。 血縁者はどんなに遠い親戚でも「優先されるもの、守られるべきもの」として扱われる傾向があります。これによる不正雇用や天下りが後を絶たないのは誰もが知るところです。

教会内でも幹部クラスや中核組織への雇用は上層部の子女や血縁者が優先される傾向が強いのは否めません。

5.氏族の重要性:前述した血縁と情で結ばれてるのが韓国の氏族文化です。若い人たちの間では徐々に薄れつつある概念ですが、教会では氏族という概念を強調させて伝道を進めようとしています。アフリカなどの部族社会では通用するかもしれませんが、他の国ではどうなのか大きな疑問です。

6.嘘も方便:これも儒教の「理論性」から来てると思われますが、日本人が知っている事実をもとにした理論とはだいぶかけ離れています。つまり空論であったとしても相手を説き伏せさえすれば”勝ち”なのであり、それが正義になるのです。

 最初に宣言して根拠を後から理屈で埋め合わせるのは教会の常とう手段です。

 

韓国の儒教文化はとても特殊なもので、全世界の人類に受けれられるようなものではありません。韓国人自体はその事実に気づいていないようですが(笑) 

この本質が変わらない限り統一教会のこれ以上の発展は難しいと感じずにいられません(合掌)